弟の趙佶が即位する 《北宋・中国・歴史》

哲宗は崩御元符三年・1100年に哲宗は崩御。

弟の趙佶が即位する。即位直後は皇太后向氏が新法派・旧法派双方から人材を登用して両派の融和を試みた。

しかし翌年に向氏が死去し、徽宗の親政が始まる。

徽宗の信任を受けたのが新法派の蔡京である。

徽宗・蔡京共に宋代を代表とする芸術家の一人であり、芸術的才能という共通項を持った徽宗は蔡京を深く信任し、徽宗朝を通じてほぼ権力を維持し続けた。

蔡京は旧法派を強く弾圧すると共に新法派で自らの政敵をも弾圧した。

そして徽宗と自分の芸術のために巨大な庭石や庭木を遥か南方から運ばせて巨額の国費を使い、その穴埋めのために新法を悪用して増税を行うといった状態であった。

これに対する民衆反乱が頻発し、国軍はその対応に追われていた。

その中でも最大の物が宣和二年・1120年の方臘の乱である。

一方、北方では遼の盟下にあった女真族が英主阿骨打の元で伸張し、遼はその攻勢を受けていた。

阿骨打は女真族をまとめて1115年に金を建てる。
update:2010年03月09日